玉岡かおるさん(作家)

協力:ホテル阪急インターナショナル





























―先ず小説を書くきっかけから教えて下さい。
書く事が得意だったことが挙げられますね。25年ぐらい前は専業主婦だったんですが、子育てをして、洗濯物をして、またその頃は主人の母と同居をしていたので、嫁でもあり、母でもありっていう一歩も家から出られない環境の中で、一番の楽しみが書くことだったんですね。子育て中も書く素材には事欠かなかったので。たまたま自分がとっている雑誌にエッセーを送ると軒並み賞をいただきました。その時はプロの作家になろうとは思わず、ただ人生の楽しみとして、日々の喜びとして書いていました。それがどんどん報われたんですね。

―恋愛小説から方向転換されたきっかけは?
短編では女性の心理の怖さ、切なさ、愛しさを切り取ることは変わりなくやっているんですけど、作品を重ねるごとに、やっぱり私は長編を書く作家だな、と自覚できたんですね。特に「をんな紋」と言う作品で大きく方向転換できました。「をんな紋」は初めての長編で初めての歴史物。それが皆さんに大きく評価をいただいた事が励みになり、「天涯の船」につながり、今回の「お家さん 幻の鈴木商店と生きた女」という新作につながったわけですね。

―では、長編が自分に合っていると思われたのはなぜですか?
短編小説だと捨てないといけないことが多くありすぎて・・・周囲文で一作短編が書けるぐらいもちネタがいっぱいあるんです。残念なことに最近は読者の皆さんが長いものを好まないということもあります。文学よりも新書が売れたり、感動よりも知識であったり。感性よりも「知」になってきている、そういう日本全体の読者傾向に抗う方向に行っているわけですから、何で自ら進んで苦しい道を進んでいるんだろう?と思いますが、やっぱり何を書きたいか、何に満足できるかということを考えたら、今の傾向に阿ることもなく、売れることでもないなと、敢えて逆流をさかのぼっているような仕事をしています。

―女性が常にキーワードになっていますが。
私自身が女性だから女性の心理がわかるというのもありますが、歴史小説を書くときは、資料を当たっても女性の視点が一切ないんですよ。ゼロといってもいい。これは宮尾登美子さんも言っておられますけれども、平家物語などの大作を書かれたときも、例えば女性たちがどんな衣装を着ていたか?女性だったらどんな色をしていて、どんな染めかというところに絶対目がいくんですけど、男性の記述者なので、そういったところがゴソッと落ちている。ただ男たちの栄光だけを書き留めてある。それが歴史になっているのですが、男性たちの目に留まらなかったものを目に留めるのが女性なので、私たち女流でないとできない仕事じゃないかという自覚はありますね。

―歴史物も違った視点で書かれているのですね。材料がいっぱいあってワクワクされているのでは?
何を一番書きたいと思う出会いになるかということですね。どれもこれもではなくて、文章や歴史に残らずに逝った女性の後姿が見えると、それを追いかけて行って私が書いてあげなくっちゃと思うんですよね。



―今回の「お家さん 幻の鈴木商店と生きた女」を書くきっかけは何ですか?
実は「天涯の船」を書いたときに出会っていたんです。江戸時代、日本に黒船の来航があり、日本人はびっくりしましたよね。それから明治時代に文明開化があって、日本に来る「舶来品」は、読んで字の如く「船に乗ってやってくる白く輝くすばらしいものだ」といった感覚を日本人は持っていきました。

ペリーの黒船で度肝を抜かせられた日本人のコンプレックスを、見事自分たちで黒船を作って、ヨーロッパに売りつけて国益を引っ張ってきた人が松方幸次郎。実業家で川崎造船所の社長を務め、松方コレクションという幻の名画コレクションを残した人。松方の事業は国家予算並みの利益を上げていたのですが、そこで松方が何をしたかというとヨーロッパの国宝をガサッと買って日本に持ってこようとした。その心意気に「天涯の船」は圧倒されて、彼の足跡を追っていったわけです。

  

ところで、なぜ松方がそんな買い物ができたかというと、彼のバックには大蔵省がついているんですよ。ヨーロッパでは物を買う時に大抵「即金で」と言われるのですが、そんな外貨を持っている日本人はいない。ところが、唯一いたのが鈴木商店のロンドン支店でした。その鈴木商店って一体何者?となって調べてみると、実は鈴木よねという女社長だったんです。私と同じ播磨出身の姫路市生まれのお家さん。小さな小さな砂糖の卸問屋から日本一の商社にした人で、第一次大戦中にスエズ運河を通る日本の船の1/3は鈴木商店の品物を積んでいたと言われるぐらいなんですよ。当然、三井物産とか三菱なんかも追い抜いて、国家予算並みの利益をヨーロッパから引っ張ってきた。しかもその棟梁が女性だったという。

ところが、調べてみるとトップなので名前や業績は出てくるのですが、実際に働いた番頭さんほど人間像が出てこない。「お家さんはただただ立派な人でした、勲章もたくさんもらわれました」という経歴しか残っていないんですよ。これは正に男性の書いた歴史だからなんですね。だからお家さんに命を再び吹き込むのは私しかいないな、ということで書き始めました。

彼女の生きた時代は女性にとって不利な時代。民法でも権利なんて認められていない。男性と同じ学校に行くこととか、同じ職業に就くこととかも阻害されていて、もちろん選挙権もない。そんな時代に女棟梁としてよく日本人をひっぱっていけたな、って。実はそこが日本古来の秩序だったわけです。日本人のすごさというのは、ただ金儲けをしたらいいというわけではなく、秩序正しく、儀を重んじた最後の商人たちだったのではないかと、今回書き終わって分かりました。

また、鈴木商店は急に大きくなった会社なので最後は借金経営で倒産してしまいますが、砂糖を売るとなると自分のところで工場を作ったり、戦争が始まると(神戸製鋼も鈴木商店のものだったので)鉄から作って船を作ったりしていました。造船所も石川とか播磨とかたくさん持っていましたからね。工場を自分で経営して自分で売る、ただの商社じゃなかった。ですからその資金繰りにかなりの苦労をして、戦後の不況でてき面にやられて金融恐慌を引き起こした会社でもあるんですね。

そこで滅びたことによって「幻の商社」と言われるわけですが、彼らが撒いた種というのは、私たちが汲み取るものはありますし、現に経済界でも神戸製鋼や日商岩井、テイジン、ダイセルなど、それも鈴木?と思うぐらいの大きな優良企業も残している。それを風化させずに書き留めて皆さんと分かち合いたいな、という思いで3年間頑張って11月28日ようやくの上梓の運びとなりました。



―どの部分に一番共感されましたか?
やはり人間としてのお家さんですね。資料に残っているのは企業のトップとしてのお家さんだけ。実は彼女のご主人が亡くなった時に店をたためと言われていました。たくさん遺産もあったのですが、息子2人の母親として「この子達に店を残したい」という思いだけで、店ののれんをたたまなかった。その決断のおかげで、彼女が淡々と維持をすればいいと思っていたものが、10倍ぐらい大きくなってしまう。そこには息子が入り込む隙がなかったんですよね。でも母親としての苦悩が資料にはどこにも出てこない。それ相当のジレンマや悩みがあるに違いない、そこに私は一番惹かれました。生身の母親として、公人の企業のボスとして、子どもと企業をどう育てたのかを一番力を入れて書きたかったところです。

鈴木よねは、資料には刀自(とじ)と出てきます。刀自は今はほとんど死語です。広辞苑で引くと「家の中にいる女性について言う言葉の尊称」とあります。日本語ならではの表現ですよね。例えば前線で活躍している女性には「女史」と言いますが、これはいかにも男性並みに歴史も知っていて知識もあると想像できます。あと「女将」というのは今も使われていますが女性がボスとして前線で働く人をいいます。刀自は、そのどちらでもないんですよね。刀自という呼び方があったというのも私にとっては発見でした。

調べてみるとおよねさん以降、刀自と呼ばれた女性はいないんですよ。あとは女将か夫人になる。だから家を差配し、かつ人々の尊敬を集めたのはおよねさん以前も以後もなかったのではないかと思います。男女雇用機会均等法ができて、男性と同じように就職も仕事もできるようになりましたが、若い人たちに訊くと「やっぱり結婚して子どもを産みたい」という希望はあるし、女性としての幸せもある。でも家の中に入ってしまうとその道が塞がれるか?というとそうではなくて刀自という道もあるんだよって。そんな一つの突破口を彼女は示してくれている。

そういえば今セレブの間で人気のサロネーゼ。お家の中で講座を開いて社会との接点を持つのがブームになっていますが、サロネーゼなんて刀自だなって思う。なんらブームでも新しいものでもなく、歴史を探ると同じように苦労しながら独自の生き方をして、でも歴史の中から消えてしまった女性というのはたくさんいるんだ、と思いました。よねは男の人たちと競い合うというより、上手に男たちを使っていた。タイトルにもなる「お家さん」は家の子達を動かす人だった、家の頂点のボスだった。

封建時代に家の子郎等があったでしょう。棟梁がいて、武士団の最たるものが源氏でしたが、棟梁が男でないといけなかった。ところが商売では女でもよかった。その女棟梁が何をしたかっていうと、自分は一切物を売り歩いたりしていない。男たちを上手に使って、男たちが失敗して帰ってきたら「お金ぐらい貸したるで」っていうような声をかけて、手のひらの上で動かしながらどんどん大きくしていった。一番賢い女の生き方かなって思います。なかなかできないですけどねぇ。

―書き終えた今の気持ちは?
とうとう彼女と一緒に人生の終焉を迎えられたなと思いました。実は書き始めた頃、最初に思い描いていたイメージが悉く覆されていきました。資料を辿っていくと、資料が不親切だったり、なかったり。最初からパーフェクトな女性としてしか残っていないので、パーフェクトのままで書いていくと、親しみも覚えなければ、共感もない。そんなはずはないやろう!こんな完璧に生きられた女性なんていないだろう!って。

それで一度崩してみると、彼女の苦悩が見えてきて、じゃあこの苦悩を彼女はどうやって乗り切っていったんだろうと考えて一緒に乗り切った気がする。きっと取り乱したこともあっただろうし、見苦しいこともあっただろうけど、それを出さなかったから彼女がパーフェクトに画かれている。ということは、家を一歩出ると取り繕う理性の人だったのかなと発見できた時に、大きく作品が変わりました。

―一度書いたものを崩したということですが。
何度か書いて1年がかりの仕事を全部捨てました。こんなものを彼女は見たくないだろうと思って。そのあたりはプロたるもの読者を意識しないと。論文であったならそのまま発表してもよかったのですが、小説は違う。人間が描ききれていないと読者は賢いですから「ふーん」で終わる。

知識を得るだけならそれでよかったかもしれないけど、プロの作家とは読者の心を動かさないと成功したとはいえない。どうすれば読者が共に泣いてくれるのか、というのが一番の悩みでした。

その仕掛けは色々しているので読んでいただければと思います。存分に泣いて、感動して心を揺らしていただければと思います。よねは高齢で87歳まで生きました。鈴木商店は倒産して小さな商店となって、よねはその人生を全うしているのですが、終焉の時、きっと「もうあと20年生きられたら」と思ったに違いない。

その終焉の時のよねは皆さんにも降りかかる課題ではないかなと思います。自分の命の炎が消える時の悔いを悔いにさせない生き方をどのようにするかが、これからの長寿社会を生きる私たちの宿題なんでしょうね。

―家庭と作家活動の両立はどのようにされているのですか?
子育てが終わったのでそれが幸せです。子育てって永遠に続くんじゃないかと思ってたんですよ。先輩の主婦に訊くと「今だけだから、今は子育てに100%使っていてもいいんじゃない?」なんて言われても、自分が体験しないとそういう言葉って解らなくて、家事や育児に時間を取られている私が損をしているような気がしていることもあったんですが、子どもなんてパタパタって羽ばたいていっちゃって、気がついたら家の中に私と犬だけしかいないっていう状態なんですよね。

人間ていろんなことに時間を奪われているからこそ、自分の時間を大事にしよう、死守しようと思うんであって、だらっと時間が与えられると、かえってだれちゃって、明日書けばいいかとか、本も今日までに読んでしまおうなんて思わなくなって時間を惜しまなくなってしまうので、主婦であったこと母であったことがよかったと思っています。

でも女って楽できないんですよ。子どもたちが羽ばたいて1年ぐらいは自由な時間があったのですが、夫の母が高齢で今、介護の生活に入っているので、これは家庭の主婦である限り、免れえないことなんではないかな、と。子育てはすぐ終わるよってアドバイスしてもらいましたけど、みんなが今、介護に本当に苦労して、お互い愚痴をこぼしあって、っていう状況。

いつ終わるかわからない仕事ですがこれも悔いのないようにと思っているので自分の時間だけというわけにはいかない。どこか仕事場を借りる話も進んでいたんですが、母も看ないといけないので、家を出られないなと。相変わらず自分の時間を作る競争ですね。



―玉岡さんの小説の舞台は播磨が多いのは、玉岡さん自身の出身に影響していますか?
同期の作家で男性の作家は取材にいけますが、主婦作家としてスタートした私は刀自だったので(笑)取材に行けなくて。取材にいけずに小説を書くのはすごくハンディだったんですが、逆にいうと、生まれ育って、今も住んでいる播磨のことを書けば、誰よりも詳しくそのスペシャリストになるわけですよね。欠点を長所に反転させただけのことなんですよ。

播磨をここまで書ける作家は私しかいないと自負しているわけですが、私以上に書ける作家がいるなら出てきなって(笑)。だから播磨弁も非常に大事にしています。そして戦略的に播磨になった事を評価していただきました。作家にはそれぞれ持っている使命があって、なぜ家庭の主婦を神様はプロの作家にしたのかというと、やっぱり私にしかかけないものを書け、ということかなと思うんですよね。そうすると、関西人であるということや関西に染み付いたもの、5代さかのぼっても関西の血しか入っていないので(笑)そういうオリジナリティを書くことかな、と思います。

―話は変わりますが、「ため池ミュージアム」の活動について教えていただけますか?
三田市でもぜひ一緒になって入っていただきたいですね。これは兵庫県の播磨という小さな地域からスタートしているんですが、私の視野は兵庫県であり瀬戸内。瀬戸内の文化圏は雨が少なくて台風は避けてくれるし、気候が温暖でいいところなんですが、逆に言うと水が乏しくて。「をんな紋」でも書いたんですが、水を得るために先祖が血のにじむような努力をされている。その努力というのは、天から降ってくる水をどうキープするか、ということ。そのために作ったのがため池なんです。

このシンプルな公共事業!「をんな紋」の時代ではお上がやってくれるものではなくて、そこから利益を得る人がギブ&テイクで、土地を持っている人は土地を、お金を持っている人はお金を、土地もお金もだせない人は労働力で土を掘ったり積んだりしている。女だけの家は働いている男たちにおにぎりを出すだけでもよかった。何らかの形で苦労してつくったのがため池なんです。そうやって苦労して作ったため池が何度土手を積み上げても大雨が降ると崩れてしまってダメになってしまう、そうなった時には人柱を立てたりするんですよ。これは日本人の切ない考えで、天地宇宙と調和していた証明なんですよ。

自分たちの人智を尽くして自分たちの力でやれることは全部やるんだけれども、それでも天が許さずに土手を崩してしまう時は天に祈る。この美しい風習はため池に生きています。水の神様を祭って、田植えが終わるといったんは水を抜いて池をさらえて、そうすると池の中ではねていた鯉を貴重な蛋白源としてみんなが持って帰る。一回天日に干すことによって、その中にいるヘドロが浄化されて蓮の種が生き返る。日本人は農耕民族だから冬になると全ての生命は死に絶えたように枯れるけれども、春になると復活して蘇るのを知っていた。だからそういう手間をかけていた。ところが黒船が来て以来、西洋の文明に侵されて、ため池に背を向けてしまったのですが、やっぱり先祖がどういう思いでため池を作ったのかを忘れてはいけない。

池は手を加えてやれば、命を蘇らせる場でもあるんですよね。原生林や手つかずの自然を守るのも大切ですが、ため池は人間と自然が調和してできた自然構造物なので逆に愛しい。それを現代人が潰して埋め立ててもよいのかどうか?私たちがこれを今作ろうと思っても作れないと思うんですよね。次の世代になんとか瀬戸内の民族の遺産として受け継ぎたいなという運動で「ため池ミュージアム」を始めたんです。まず、どうやって見向きしてもらおうか、というのが私のアイデアの絞りどころでした。先日、国交省の調査のためのヘリに乗せてもらったのですが、空から見ると感動しますよ。こんなにたくさんため池をよく作ったね!って先祖の日本人が愛おしくなりますね。

平地といっても窪地がありますので、へこんでいるところに土手を積めば水がたまるというシンプルな構造物だったり、逆に川から水を引いてきて高く盛り土をしてせき止めたりと色んな知恵を垣間見ることができます。本当にキラキラ光って鏡がはめ込まれているみたい。みんながみんな上空から見られればいいんですが、そういう機会もないので、どうやったら関心を持ってもらえるかというと、水がきれいだと自然にみんな見てくれるじゃないですか。そこで、まずため池の水をキレイにします。ため池の浄化は何千万円の公共事業費を投入すれば、日本の技術力と科学力を持ってすればすぐできるんだけど、そうではない。ため池は自然の力と人間の力が協力してできたものですから、自然の力を借りようと考えました。



「ぬばたま貝」という土着の貝があるんですが、地元では貝殻が黒いので「からす貝」と呼ばれていますが、正式名称は「どぶ貝」。あまりにも汚いので、黒にかかる枕詞を使って「ぬばたま貝」としました。これは兵庫県一帯に生息しているので、三田の方も思い出してくれると思います。

その貝に真珠を作ってもらおう!というパールプロジェクトをしています。これは簡単な発想で、人間の体に異物が入るとそれを出そうとする。貝も同じで異物を出そうとして、真珠層を巻いていったのが真珠になるのですが、このパールプロジェクトは真珠を作ることが目的ではありません。

貝も自分が生きていくために、水をガバッと吸い込んで、餌だけとって吐き出すという生きる活動をしているのですが、なんと1日にドラム缶1缶分を吸ってくれる。そして餌をとって吐き出す。自分の要らないものはお団子のように丸めるんですが、それに虫とか貝とか魚がやってくる。「ぬばたま貝」そのものに卵を産み付ける魚もいる。貝をひとつ入れるだけで生態系が全て戻ってくるというすばらしい働きをしてくれます。

パールプロジェクトでは皆さんに貝のオーナーになってもらいます。真珠ができるのに2年かかるんですが、まだ実験段階なので水が汚かったり、色んな条件で貝が死んでしまったりすることもあります。だから、皆さんの運試しでパールができているか、貝が生きているか、そこも含めてオーナーになってもらう活動をしています。これには私のオリジナルの絵本をつけています。

絵本だけでも十分会費のもとは取れる仕組みにはしています。例えば記念日に恋人と一緒にパールを入れて、「2年後引き上げようね」って約束して・・・恋人たちが別れていると悲しいですが・・・皆さんに参加してほしいと思います。

三田もコシヒカリなどの米所ですよね。三田でもたくさんため池がありますので将来的にはぜひ参加してほしいですね。できた真珠は万葉集に「いなみの」と詠まれているので「いなみのパール」と呼ばれていますが、いずれ瀬戸内パールとして知られるようになってほしい。兵庫県のパールプロジェクトに参加したいというため池の管理者の組合の方がいらっしゃればぜひご連絡いただければと思います。

―最後に将来の夢を教えてください。
小説家ですので、新作を出すたびにこれが代表作になるように、また、いつ死んでも心残りはない、という思いで本を出しています。今回出す「お家さん 幻の鈴木商店と生きた女」が皆さんに喜んでいただければ、それを超える作品を次々出していくのが生涯追い続ける夢だと思っています。



公式ホームページ http://tamaoka.info/

協力:ホテル阪急インターナショナル