古谷 充(サキソフォンプレイヤー)
2007.5.17

常に進化。
自分のサウンドを掴むため探求を怠らない、関西を代表するサキソフォン・プレイヤー古谷 充(ふるやたかし)。
セルマー・マークYと共に歩み続けるJAZZ人生を語る!
神戸“SONE”で行われたスペシャル・インタビューの模様を一挙公開!!



―子どものころの音楽環境について教えて下さい
古谷:親父がJAZZミュージシャンですから、音楽家になる環境はよかったですね。日本にJAZZが渡ってきて定着し、ダンスホールなどが林立した昭和7〜8年ぐらいに親父はプロ入り。僕が昭和11年に生まれましたが、その頃は人気もあって、仕事も豊富で・・・戦争に突入するまでは、日本はいい感じでしたね、JAZZの歴史でもなんでも。その歴史の中にいましたね。

―お父様の担当は?
古谷:親父もサキソフォンです。同じ楽器が3代続くのは珍しいらしいです。ミュージシャンは3代目、4代目というのはあるんですけど、大体楽器は変わっていく。

―サキソフォンとの出会いは?
古谷:最初、音感教育のためにバイオリンを弾かされました。親父がどっかから聞いてきたんでしょう。小学校5年生から高校までバイオリンを弾いていて、中学でクラリネットを始めて、同時に高校までやっていましたが、やっぱり自分の性に合った物にいきますね。やっぱり管楽器。中学校の時は、吹奏楽部で、高校は堀川高校の音楽コース。僕の音楽の基礎は全部堀川の音楽コースで作られたと思う。公立高校に音楽コースがあったのは、当時堀川高校だけでした。競争も激しかったのに何故か入ってしまった(笑)同じ道を志している子が全国から集まってくるんですよね。僕のクラスは38人、女性の方が多かったのですが、とにかくみんな同じ方向を向いているクラスでしたから、仲良しでした。

―その頃、目標にしたミュージシャンは誰でしょうか?
古谷:自分のパートは2番のアルトサックスだったんですけど、それをこなすのが精一杯で・・・そのうちにだんだん色んなソリストなんかのレコードを聴きだしました。親父もたくさんレコードをストックしていて、それはそれでいいんですけど、やっぱり僕が聴く新しい方向性を持ったミュージシャンていうのは、僕が買ってきて聴いている。で、親父は全然それは見向きもしなかった。僕の場合はチャーリー・パーカーに直接的に影響を受けています。

今はたくさん文献が出ているし、出版物も豊富ですが、当時はチャーリー・パーカーのLPが真っ白になるぐらい聴かなあかん。フレーズをいただかなあかん。いわゆる採譜。テープレーコーダもないし、レコードから直にとるわけやから、大変ですよね。この8小節のこのフレーズがわからへんねん、て何回も聴くわけやけど、レコードからダイレクトに聴くから、何回もピックアップアームをつまんで、スッとその場所に下ろすっていうテクニックがだんだんついてきてね、30cmのLPのその場所に針がスッと下りるようになった。えらいもんや(笑)。

―子どものころに戦争を体験されたそうですが、当時のことを覚えていますか?
古谷:小学校に行く年の1年前の12月8日に戦争が始まった。戦時中はレコードをストックしていられない。アメリカの音楽は特に、敵性音楽ってレッテル貼られてね。おおっぴらに聴けない。見つかると拘留されてしまったりするから、親父と内緒で布団かぶって夜中にこそっと聴いたり。

当時親父がすごかったなって思ったことがあります。

親父は人気投票でも名前が出てくるぐらいのサクソフォンプレーヤーで、東京と大阪・京都をまたにかけてやっとったのが、戦争の1年から2年くらい前からダメになった。確か昭和17年の10月1日を持ってダンスホールを全部閉鎖になったはず。ということで、ミュージシャンは何もできない。転業するとか、色んなことをしていかなあかん。それで戦争に入ったら親父はまだ30代手前で徴兵されましてね。命からがら帰ってきてね。帰ってきたら幸いなことに米軍が進駐している。ソ連軍が進駐していたら日本のジャズはそうはいかへんと思う。今は米国は友好国ですが。だからそういう意味では、ジャズにとっては、米軍の統治下に入ったほうがそりゃよかったでしょうね。米軍のキャンプの中にはすぐにクラブができて、なんという速さで自分たちのレジャーを大事にしているのかという思いがした。米軍にとってはミュージシャン不足なわけですよ。日本向けのものはキャバレーも何も立ち上がっていないですからね。

それと、一家が一時北京に避難していたことがあったんですよ。親父が一度体をこわして帰ってきたんですよ。それが不細工な話やねんけど、お腹にサナダムシがいた。回虫ですわ。これは最初からおんのわかっとった。わかっとったんやけど、兵役の身体検査を受けた。ジャズミュージシャンやけど日本国民なんですよ。だから兵役検査を通らんかったというのは、すごい恥ずかしいんですよ。

今の感覚で言えば「やった!」てなもんですが・・・。

で、駆除するのが大変だった。当時絶食療法しかない。絶食して腹の中の虫を弱らせて下剤をかけて出すしかない。今みたいにいい薬がない。で、うちの親父はこの絶食ができない。呑み助で大食漢で、絶対できない。どんどん、どんどん虫が育っているんやけど、ま、えっかって。軍の中で訓練を受けて、ぼちぼち訓練が終了して、南方の方へ行きました。フィリピンまで行って、そこで発覚したんですわ。

「貴様!腹に虫がおるじゃないか!」

これは駆除してから本体復帰。ところが陸軍病院ですから何か食べさせてくれというわけにはいかへん。それでやっと虫が降りて、本隊を探したんですが、見つからない。後で親父が思ったところによると、ひょっとしたらガダルカナルかな、と。そうなると原隊復帰ができないので、いったん復員ということになってすぐに再召集。親父はだんだん訓練を重ねてくるにしたがって、かつて戦前に譜面台を並べて演奏したあのアメリカのやつらを撃たなあかんのか、嫌やなと思い始めた。それで色々情報を収集したら、家族赴任で、日本が統治している国の会社員に誰もなり手がないんですわ。抗戦状態に入っているから。それで中国のある運輸会社に欠員があるから、そこへ家族で行こう。親父は本能的に日本が爆撃されているのを知っているから、勝てっこないって知ってたんやろな。たぶん、ジャズミュージシャンほどアメリカ通の一般人はおらへんやろな。

それで北京へ行って北京で終戦。

北京にいたから助かったんでしょうね。北京より北のハルピンとかだったら危ないかもしれない。北京は首都の扱いで、重慶から中国軍が飛んできた、日本は手を上げました、次に英軍が飛んできた。つまり自由権の国が北京を守りたい、ということは攻撃しなかった。何故か知らなかったけど、なんで戦争負けたんって。僕らの近所にいる日本陸軍の北清派遣軍ていう部隊はほとんど無傷の状態。武装解除の状態で、中国軍に武器を渡す、その時に武器の使い方、戦車の扱いを全部教える。その間親父の会社の社宅に住んでたんですけど立ち退かなくてもよくって。だからおかげ様で終戦後の日本人のひどい目というのはなかった。引揚者とはそういうことなんか!って一番思ったのは、北京から天津へ鉄道で出る時に空爆を受けてね、北京からもっと北から来た人は「こんなの軽い」って。で天津から船で佐世保へ。恐ろしかったけど、いい経験になりました。

―日本に帰ってきてからの状況はいかがでしたか?
古谷:親父はいち早く仕事を北京で見つけましたね。英軍の基地の中のクラブで、アコーディオンとサキソフォンと非常に変則的な編成で。親父はジャズが当分できないということで、歌謡曲をやったり、まあ英軍のキャンプではジャズをやったりしていたみたいですが。

「何でそんなん日本人が知ってるん?」てよう言われたらしいですけど・・・。

その時の経験は絶対にあったと思う。戦争が起きなければ、あんなひどいことは起きないと思う。日本がどこかと交戦状態になって、もしそうなってジャズが一切ダメということにならないとも限らへんけども、親父よりひどい目に遭うことはない。よう立ち直ったなと思う。あれだけダメージを受けて、帰ってきてきちんと音楽やろうって気にならへんと思う。

戦前の生き残り派は皆さん強いですわ〜。日本の終戦後のジャズを支えたのはそういう人たちやからね。怖かったですけどね。

そんなバンドマスターの下で働くと・・・兵役上がりの人は一杯いるわけですからね。間違えたら「お前!」とか言いませんよ「貴様!」ですからね。ここまで手があがってますからね。で、「おっと」って止める。やっぱり先輩後輩の縦の関係はきついですね。僕もこの年になっても、白いもんが黒い、って言わはったら「はい、黒いです」って言わなあかん相手が何人かいますね。それが今となってはものすごい嬉しいことなんですよ。若い頃は、早く死んでしまえ〜って思いましたけど(笑)。今「さん」付けで呼ばなあかん相手が減りましたから、寂しいですね。



―古谷さんはサキソフォン・プレイヤー以外にもヴォーカリストとしても有名ですが、歌うきっかけは何だったのでしょうか?
古谷:ヴォーカルはね、アロウってナイトクラブでバンドが2つ出ていて、バンドが交代する時に、ピアノソロでつないだりしている。その時にバンドマスターの北野タダオさんに「ちょっと歌えば?」って言われて、歌ってたんやね。僕は僕の歌がバッチリやと思って歌っていた。ジャズヴォーカルはミュージシャンがやらなくちゃ、って思ってた。何にも解ってなかったね、歌が「言葉」やっていうことなんか、全然わかってない。

ある日のこと、僕のサキソフォンのファンの外国人が「古谷さん、歌もうまいな」って言うの、でも「英語でたらめやな」って(笑)というような評価を受けまして、その時は「まぁいっか」と思っていたんやけど、その次にね、二発目の歌のダメージを受けた。

アロージャスオーケストラが、NHKの「お昼の軽音楽」という番組で歌を一曲入れようと北野さんがおっしゃって、歌を一曲挟んだわけ。やっとこさっとこ録音で番組が作れるようになった頃で、後で録音を聞いたら「なにこれ?!」というぐらい下手くそやった。まず、自分の声の録音聞くのは誰しもイヤでしょう。俺はこんな声じゃないと思ってたからガックリや。

それで暫くもう歌はやめ!ということに。

そやけど、やっぱり歌うのは嫌いじゃないから(笑)また、歌い始めたんやけど、歌をちゃんと真剣に勉強をせなあかん。でも僕は楽器の人やから、歌の勉強をする時間がもったいない、それやったら楽器の勉強をしたい。それでどうしたらいいかな、と考えた時「そや、レッスンをしたらいい」っと。レッスンを与えるんですよ、あつかましい(笑)。

生徒を取るから、責任もあるし、最初は安い月謝ですけど、ものすごい歌のこと真剣に考えなあかん。「先生この歌の意味どんなん?」て聞かれたら「あ、ちょっと待って。また次のレッスンで」とか(笑)。歌詞を字引で引いて訳して、自分で勉強しはじめて、文法ばっかりやってもしょうがないから、言葉だけは習っておこうと、英会話習いに行こうって。そしたら言葉のリズムがちゃんとあるんやな。曲を見てみると普通のセンテンスの中でアクセントのあるポイントがあるんやね。で、音楽やったらアクセントのあるポイントが強拍部にちゃんと来てるんやね。弱拍部にはアクセントのない例えば冠詞とか。絶対に強拍部にはない。THEから始まって「THE MAN・・・」とかいう時に「3、4、THE」となることはない、「3、4THE MAN・・・」とね。簡単に言うたらね。

レッスンしているとそういうのがわかってくるんですよね。それと言葉をどう扱っているかということが、その人の歌のうまい下手に直結しているな、英語の発音が良い悪いではなく、良いにこしたことはないけど、英語の言葉としてのリズムを知っているかどうか。僕のレッスンの骨子はそこなんですわ。英文科出ているとかなんか言うたらこれまた話は変わってくるんやろけど。だからジャズというのは米語で歌わなあかん。米語の持っているニュアンスがジャズヴォーカルを支えて来ているわけやから、逆にサルサなんていう音楽を英語で歌うと、こんなに白けた話はない。やっぱりヒスパニックのアクセントやから。そういう風に考えていくと、日本の歌もええな、と。でも、日本の歌って難しいですよ。訳詩は特に。「I」っていうと音符2つ、「私」っていうと音符3つになる。これは大変。上手に訳してくれたらいいねんけど、大変ですよね。

―お好きなヴォーカリストはいますか?
古谷:それはもうフランク・シナトラ。いろんな人が好きですけど、どちらかというとストレートに歌う人が好き。原曲を大事にしている人が好きやね。

―先ほどのお話にもありましたが、お父様の思い出はありますか?
古谷:うちの親父は養子に来たんですよ。これまた大変な話でね。うちの母親は一人娘でね。僕の祖父は友禅の大きな工場を持っていたんですけど、戦争でこれがダメになってしまって。お袋は友禅の一人娘でありながら、これがなんとダンスホールで働きたいととんでもないことを言った。親の反対を押し切ってね。当時はダンスホールというのは、ストレートの水商売というよりは社交場といった感じでして、ダンスホールで働くというのは、エリート意識の中で働くといった意味があったようですね。そんな風にお袋は言ってましたけど、言い訳じゃないかと(笑)不良したかったんだろうと思います。

そこでうちの親父がステージから見初めるわけですよ。「結婚してくれ」ということになりまして。「婿養子に来るのなら」って婿養子に来たんですわ。これがまあえらいことですわ。京都でっせ、一人娘でっせ、友禅でっせ、バンドマンでっせ、婿にきたんでっせ。えらいこっちゃですわ(笑)。ドラマに出来そう。役者も大体見えてきますわ。意地の悪そうな舅からね、ぶっとんだ京町娘とね(笑)。

―ところで最近、北京に行かれたそうですが?
古谷:この間小曽根実さんと日中友好のためのジャズの演奏に行きました。子供心に景色が残っているのは紫禁城の一番手前のところに前門と書く門、チェンメンという門をものすごく覚えているんですよ。その近辺に親父の勤めていた会社があって、僕らは郊外の西郊(シイキョ)という北京の住宅街に住んでいて、そこから市電に乗って親父の会社に行く。ご飯を食べさせて、みたいな。

―長い音学歴の中で、思い出に残っているセッション、ライブはありますか?
古谷:初めて東京に行った時。スイングジャーナルという雑誌で少し名前が出てきた頃。まだ22、23才の若造なんやけど、スイングジャーナルオールスターズみたいなジャズセッションの催しがあって、そこへ行くんです。僕は一人で大阪から行くわけです。寂しかったけど、友だちが瞬く間にできましたね。スイングジャーナルという雑誌のベスト10にいる若い奴等のセッションがあったりして。

有楽町にヴィデオホールという小さなホールがあってね、そこで夜中までずっとジャズをやっている。僕らは露払いですからね。最初のほうをちゃっちゃっとやって、後は偉い人が出てくるのを全部聞かせてもらって・・・というのを思い出しますね。

それから、僕が未だに忘れられへんのは84年やったか、大阪のシンフォニーホールで辛島文雄というピアニストとデュエットでコンサートをしたんです。シンフォニーホールで初めて、日本人のジャズアーティストがステージに上がるってことになったもので、それがやっぱり印象に残っています。練習もしたし・・・ガチンガチンに上がりましたね、最初は。

それと、今は、18人編成の僕の「ネイバーフッドビッグバンド」というのがあって、毎年12月の第1か第2の土曜日にアルカイックホールでリサイタルをしてたんですけど、このバンドでは毎年思い出を作ってるんですよね。メンバーがものすごく年齢層が広くて、僕と宗清洋さん(トロンボーン)が70才を超えていて、中堅が40代後半から50代、それから30代が主力。

それが10周年を去年迎えたんですよ。

いつもこのバンドでは若い子らと自分がどこまでやれるか、という実験版。若い連中とやれる速度感をどうやって維持するのかな、というようなことがはっきりわかるわけですね。

やっぱり諦めたくない。

実はみんなが知っているリクエスト曲ってつまらないな、って思ってたんですよ。ところが、その曲つまらないな、って思う前にもう一度ちゃんとやってみたらどうやろう、と最近は思う。なぜその曲をリクエストしてくるのか?リクエストしてくる人は年配の方が多いんですよね。だからその曲とともに今までずっと来てはる。ジャズを聞くんやったらこの曲やと思ってはるんですよね。一番安心する年齢の現役のミュージシャンの僕にリクエストしてんのに、俺がそんな古いのもうやめてくれや、っていうのはこれは間違いやろうな、と思うようになったんですよね。

未だにグレンミラーのバンドが日本に来て、ある程度の興行成績を上げている。

つまりどっかで止まっている時間があるんやね。時間がとまっている世界が。そういう風に解釈するとその曲やりたくないんやね。俺の時間は止まっていないから。若い連中と一緒に組んでいるバンドもシリアスな曲をいっぱいやっている。それがやれる間は現役やろう。ある程度年配の人が昔懐かしいリクエストに応えたほうが興行成績がいいわけやけど、それだけじゃダメやな、と思っていたわけやけど、今年から分けました!完全に!自分が今信じている僕の一番かっこいいところを見せるコンサートは別の場所で、対象が違うところでやる。

あるいは先に大丈夫やで、皆さんの好きなものは提供しますよ、皆さんを裏切りませんけどこれもどう?ていうのをする。

この間、尼崎の老人福祉センターでコンサートやってくれって言われた。アメ、アメ、アメ、ムチ、みたいな曲をずっとしてたんやけど、この時に集まった老人の方たちの感性の良さったら。アメ、アメ、アメと曲を並べていってムチ、といったら、まぁ、ムチってキツイ曲っていう意味ね。それに対する反応がすごかったね。そこから右肩上がりの難度の選曲になったね。諦めたらあかんわ。決して諦めたらね。でも優しさが求められているとも最近は思う。もうちょっと前まで60代までは、スピードが出ている僕っていうのが、「年の割には吹かはりますなぁ」と感じてくれてたやろうし、それがやっぱり同世代の人たちは「あんなやつもおるんやから」って言って頑張ってくれている人もいるかも知れない。

最近は定年退職している人も多い。

定年退職して悠々自適っていうのはストレスの分量が少ないんや。で、ストレスの分量が少ないと死にまっせ、と僕言うとんですわ。ストレスがないと絶対あかんの。色んな人が言ってるけど、僕の場合はいろんなことで具体的にお話ができるんやね。

例えば、楽器のマウスピース。吹くのにマウスピースにストレスがあるんですよ。マウスピースには息が入らへんのですが、息が入らへんやつにドッと息を入れるから、音が出る。これがマウスピースのストレスが0な場合、例えばリコーダーのようにほとんど息が誰でも入ると、ものすごくコントロールが難しい。音程にならない。色んな意味で、ストレスがあって、それを押し返すっていうか、ストレスに向き合ったところで、達成感がある。といつも思いながらやっているんだけど。年配の方がジャズを聴いて「元気もらいました」って言う事あるんやけど、ホント?って言いたくなる時もあるし、ホントやなぁって思う時もある。特におばあちゃん元気やわぁ。そやけど、握手する時に人の手握って離してくれへんの。なんとかならんかな(笑)

―選曲を切り替えたきっかけは?
古谷:その老人ホームの福祉コンサートです。そうなんやと思った。安心したら、その次僕が主張しているわけです。それまではサービスしているわけですよ。サービスってもちろんちゃんと音楽を演奏しているわけですよ。情熱はありますよ。情熱を感じない曲は演奏しないから。けど、ほんとに今やりたいのはこれなんですわ、って出すタイミング、ちょっと小出しにした時に、それはすばらしい!っていう拍手とか反応でね、わかりますやん。ほな、次もやってみようかな?難度高いねんけど・・・ってMCではっきり言うの。

「今からちょっと難解な曲をやる。メロディもはっきりせん、今日覚えようとしても無理や、僕が今日この場で、この時間、今演奏した、5分なら5分の時間の流れを楽しんだらいいねん。それが音楽っていうものや。もしか追っかけてくれるんやったら、明日違うライブハウスで同じ曲またやるから、その時絶対今日とは違うから。それがジャズの面白いところやで」といった話をしながらすると、その話の理解度は高いんですわ。だてに長いこと生きてへんわ(笑)若い子に言うてもね、客員などもやってますが、フンフンて聞いて馬耳東風ですわ。年配の方はそれを心理的にわかってくれるんですよね。「じゃあわかった。やってみろ、もう一曲」みたいな顔されると、かかってきやがったな、ってな気分になるわけですよ。

―今使っているサキソフォンは何ですか?
古谷:セルマーのマークY。今はあんまりないんですけど、それのゴールドプレート。ようするに金張りなんだけど、今、金張りに見えないかもしれません。金がだんだんくすんできて・・・新品で買って45年目。今一番いいところやと思います。楽器によって寿命は違うと思うんだけど、サキソフォンの寿命ってどんなに長くても80年ぐらいまでいくと金属疲労が起こってきて、しっかりとした共鳴が、つまりデカイ音がならなくなる。枯れた音はするんですけど。

例えばベースなんかは、200年。出来上がってから200年でピークが来る。(指差しながら)今あそこにあるベースはできて150年経っているって言ってるんだけど、これMCのいいネタやねん。ということは、君はピークが来る前に死ぬんやねって(笑)僕の場合は今の楽器が45年、早い寿命が70年、長生きして80年やけど、僕の吹き方は楽器を酷使しているようやから、一緒に死ねるかな、とか思ったりして。

倅に言わせると、「そのパワー、80代になったら落ちるやろう。ほんなら楽器の方が強なるで」って。彼がなんでサキソフォンやってるかというと、話は簡単ですわ。家にサキソフォンがあったからなんです。

普通の家庭やったら「お父ちゃん、サックス買って」から始まるわけでしょう。

「なんでやねん」「吹奏楽でいるねん。」「学校にないんかいな?」「あんねんけど、自分のサックス持ちたいねん。」から始まるんやね。で、「どのぐらいするねん?」「先生に聞いたら一番安いので10万円する。」「10万!!」てなもんや。

そっから始まるわけやけど、うちの場合はプロ級のが2〜3本転がっているわけ。サックスやれ言われた、いうて吹奏楽入ったみたいやけど、本当はトランペットやりたかったみたい。「これ持って行け」て家に転がっているスペアのサックス持って行かしたら先生に「なんちゅう楽器持ってくるねん!」て言われたらしいですわ。まあ、それから始まったんでしょうね。

僕も親父が「一本余っているクラリネットあるから吹いてみ」って言われて学校持っていたら先生に「なんちゅう楽器持ってるねん!」て言われましたよ。これもプロ級の楽器ですわ。

最初、バイオリン、クラリネット、サキソフォンにいったんだけど、楽器には難度がある。バイオリンの難度の高さっていうのは、管楽器に比べたらものすごい高いですわ。ちょっとしたメロディ弾くだけでも大変や。管楽器に移ったらクラリネットは楽ちんやなぁって思った。一枚のリードの楽器はクラリネットなんですよね。クラリネットに改良、改良を加えて、全身を金属にしたのがサキソフォン。

ということは、クラリネットよりサキソフォンの方が使いやすい。バイオリンからクラリネットからサキソフォンへ難易度がどんどん下がって、その楽器を選んでいるって大卑怯者やねん。だから、逆にやるべきことはしっかりやらないと。クラリネットでは相当練習しないとできないことをサックスではあっという間にできますからね。あっという間にできるかどうかはわからへんけど、やりやすい。両方やったから自分でよくわかります。ただ人によって違うんですよね。例えば、バイオリンをずっとやっていて、バイオリンなら何でもできるんだけど、クラリネットって大変な楽器よね、という人もいるかもしれません。

音楽学校に副科ていうのがあるでしょう。専攻楽器の他に必ずもう一つ楽器をやる。ピアノは必修ですからね。ピアノのほかに何かやる。すごくいいことやと思う。それが本業になった僕の友達たくさんいますからね。ピアノ課で入ってきて副科でセロをやって、ずっと交響楽団でセロを弾いていたやつもいますしね。つまり副科っていうのは、音楽の中で色んな可能性に身を置くということ。作曲家とか理論をやっている人は、いずれ編曲したり作曲したりする時に楽器のことをわかってないといけないよね。副科でひとつとっただけで、広がるでしょう。

例えばセロという楽器を弾いたら、それはバイオリン属のちょうど低音の底にいて、バイオリンとは一番向こうにおる、バイオリンとは指をはじいて弾く楽器とか、そういうのがちょっとでもかじっていると自分が編曲したり、作曲したりする時にものすごく役に立つ。そんなわけでサキソフォンて最初はものすごく取っ付きやすい。だから最近はサキソフォン人口がものすごく増えている。トランペットやトロンボーンに比べるとポンと音が出るので、そんなに時間はかからない。つまり最初はすごく易しいんですよ。門が開いていて、すっと入れる。すぐ上手になって、ある程度ドレミファソラシドが吹けるようになる。でも、すぐに上手になった楽器を本当に音楽にするにはごっつ時間かかるんですわ。トランペットなんかはパンと音が出るようになりました、という事自体が既に音楽なんや。サックスは音鳴ってるやん、って、音が鳴るだけやねん。これは未だに思う。

他の楽器もそうやけど、ジャズサックスは特に、ものすごく個人的に音色が違う。それはその人が自分の音を持った、ということやね。おかげ様で、録音物で「古谷さんちゃう?」って言ってもらうようになったんやけど、自分の道具でありながら、自分自身に完全になってるのかな、って未だに思いますね。まだ道具を使っている。最後は、道具を使っているんじゃないところに行きたい。これは道具じゃなくて僕や!って、キザな話やけど。

ある程度は無意識で吹いているときに仕事じゃなく、練習中、疲れて無駄吹きをホロホロしている時、あれ?今のなんやったんやろう?ってありますね。勝手に頭の先から楽器の筒の先までやっている。僕は落語が好きやねんけど、「小言念仏」っていう落語、あんな感じになってるの。そういうのがどんどん増えてきた。ビギナーは全くないですよ、そんなん。ビギナーは呼びかけて名前呼んでも、おいって言うまで返事してくれへん。



―古谷さんにとって音楽とは?
古谷:僕は非常に幸せやと思う。僕は早いうちに自分の一生使っていく楽器に出会えて、そんな長い時間かかってませんからね。バイオリンを小学校5年から高校2年まで弾いていますから、これは結構長かったんですけど、クラリネットは中学、サックスはジャズバンド入る時に出会っているから、もっと長いことかかる人おるんですわ。自分が一生付き合っていく楽器はこれや!って見つけるまで。これは非常にラッキーですね。

そしてジャズは自分の本業にするべき音楽であろうって気が付いて、何の違和感もなくいけたのはすごく幸せ。音楽的には迷うことは全然ない。ただ、平たくいうと飽きてくるっていうのはありましたね。違う職業ってどんなんやろう?っていうのはありましたね。音楽をやってなかったら定期便のトラックの運転手をやってみたかったね。あれはいいやろうな〜って。長距離ドライブ好きやから。レーシングカータイプじゃなくてクルージングが好き。それならトラックやねって一瞬思ったことあった。結構収入もあるみたいやん、寝不足強いしな、とか(笑)

―最後に息子さんである光弘さんも同じサキソフォン・プレイヤーとして活躍されていますが、どのように感じますか?
古谷:いいんじゃないかと思いますね。家業を継いでくれたとかそういう意識じゃなくて、早いうちに自分の職業見つけてよかったなと。彼はコンピュータに強くて、専門学校でデスクトップミュージックという先生をしたり・・・プロミュージシャンていうのは、いい意味で職業としてなんかの保険がかかっているほうがいい。それが彼の場合コンピュータ。僕の場合なんにもないんですよ。例えばかつてはラジオでしゃべることや、ちょっとものを書いてみるとか、そういうことやと思うんやけど。まぁ、倅はそっちみたいですわ。



古谷さんは、毎月第3木曜日神戸にあるライブハウス「SONE」に出演されています。
ぜひ大人のジャズ・ナイトをお過ごしください。

古谷 充 公式ホームページ http://www.furuya-jazz.com/

協力:SONE